- ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() - てのひらの - |
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里が春を迎える頃には、家々の軒先にはそれぞれ色とりどりの花が飾り付けてあった。里ではこの季節になると春の到来を祝って各々家の軒先に色々な花を飾るのが習わしである。 牡丹、紅梅、椿に木蓮と様々並ぶそのなかで、少年の家の軒先には何もかかっていない。今日はお祭りのようなもので里全体が活気づいていたが、少年の心だけは沈んでいた。 両親は祭りの露天で自作の花籠を売り込むため、朝早くから家を空けている。内職の材料にただでさえ数少ない花を取られてしまい、少年の家の軒先には毎年何も飾れずにいる。 少年は朝から何をするでもなく玄関先に立ってお隣さんの沈丁花の花を見たり、真向かいの躑躅の匂いに頭をくらりとやりそうになったりしていた。 事実、里の通りにはどこにも花の匂いが充満している。大気に溶けきれなくなった大量の花香が、ゆるやかな風に乗って鼻先にまで届く。 それは、野山をそのまま切り取ってきたかのような原色の匂いだ。褪せることもなくこの里の通りには野山が広がっている。人の手による、幻想の野山である。 早朝と呼ぶには遅い時間であったが、昼と呼ぶにもまだ早い。少年は朝食もまだ食べていない。 里の通りからは何の音もしない。皆、祭りの会場である大広場に集まっているのだ。留守を命じられている少年には当然そんなことはできない。 風の音だけが、微かに少年の耳に触れる。その音を聞いていると、大気に混じった匂いの花びらまでもが見えてくるような不思議な心持ちになる。 少年は花が好きであった。 だから、祭りの広場へ行かずとも、この通りに立っているだけで少年は良かった。昼になると広場からこの通りを花御輿が通ることになっているが、それまでには家に引き込んでいれば良い。 少年が好きなのは、赤い花だ。 木瓜、椿、夾竹桃、花蘇芳、他にもたくさんある。 木瓜の花を飾っているのは、三軒先の家だ。椿を飾っているのは二軒隣の家。 そうやって、花を見ているだけで少年は楽しい。 「ねえ、あなた」 不意に、声がかかった。 少年の家の玄関先に、いつのまにいたのか白いワンピースの女性が立っている。細い、しなやかな肢体の女性であったが、はかなげという訳でもない。 瑞々しい、春を纏った女性であった。 「お水を一杯頂けないかしら」 ゆっくりと女性はそう言った。 女性の手には、形を崩していない立派な色とりどりの花が包まれていた。少年はコップに水を汲み、それを女性に手渡した。 「ありがとう」 女性は謝辞を言って、手に包んでいたたくさんの花に水を半分ほどやり、残りを口に運び、おいしかった、ありがとうともう一度礼を言った。 「なにかお礼をしないといけないわね」 女性が、やんわりと笑って少年の顔を見た。少年の顔が朱に染まる。どきどきと、心臓の鼓動が早くなるのが分かる。照れ隠しに、少年は小さく身を引いた。 「花は好き?」 女性が言った。 少年は、ゆっくりと頷いた。 女性が、ひんやり濡れた手で、少年の両てのひらを取った。柔らかな女性のてのひらの感触が伝わって、少年はまた赤面する。女性は少年の手を取ったまま、手に包んだたくさんの花々を少年の開いたてのひらの上に静かに移していった。 「差し上げるわ。私にはこれくらいの花がちょうどいいから」 女性のてのひらに乗っているのは、ふたつみっつの小さな白い花だけだ。少年のてのひらにあるのは、色とりどりの様々な花。 少年のてのひらと女性のてのひらが重なり合い、その上にたくさんの花々が水に濡れて並んでいる。 それはまるで、小さなてのひらのにわであった。 --------------------------------------------------------------------- |