- ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() - いちめんの 【菜の花】 - |
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いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな かすかなるむぎぶえ いちめんのなのはな 山村暮鳥の詩である。 詩集『聖三稜玻璃』に収められている、「風景」という句である。後ろから二行目が『ひばりのおしやべり』『やめるはひるのつき』と変わって第二聯、第三聯が繰り返される。 私が山村暮鳥を知ったのは中学生のときであった。 授業で使っていた国語の教科書に、『いちめんのなのはな』が載っていたのである。 私は、暮鳥の詩の虜になった。 ちょうどそのとき、東京から転校生が来ていた。 朝子という、溌剌な少女であった。 誰に対しても人当たりが良く、東京からの転校生が珍しかったこともあって、たちまちクラスの人気者となってしまった。 ある日のことであった。私は伯父のやっている古本屋に朝から入り浸って、古書ばかりを眺めていた。 そこに、件の朝子が現れた。 朝子は店内に私の姿をみつけると、少し驚いた顔をして、私の近くに寄って話しかけてきた。 「本が好きなの?」 私はそのとき初めて、面と向かって朝子の声を聞いたのであった。 鈴を転がしたような、よく通る声。 私は少々口籠もりながら、ここは伯父が一人でやっている店であること、ちょうど本を読み終わったので、次の本を探していることなどを語った。 彼女はそれをころころと笑いながら聞いて、 「次は何を読むの?」 と訊ねてきた。 そのとき私が探していたのが、山村暮鳥の詩集『聖三稜玻璃』であった。そのことを彼女に告げると、彼女は顔を明るくして、私のことをしっかりと見ながらこう言った。 「その人の本なら私の家にあるから、良かったら家に遊びに来て」 え、と私は想わず声に出してしまった。予想外の返答に、心臓がどくんと震えるのが分かった。 そんな私の素振りを彼女は気にした風でもなく、柔らかな手のひらで私の手を取って、行こう、と促した。 彼女の家は、伯父の古本屋から十分もかからない、小高い丘の上にあった。ちょうど、時期である黄色い菜の花が家の庭いちめんに広がっていた。 彼女がからからと玄関の引き戸を開けた。 靴を脱いで、玄関を上がる。両親は外出中のようで、私は彼女に言われるまま黄色い庭の見渡せる縁側に腰掛けた。 彼女はちょっと待ってね、と言うと私を残して奥に引っ込んだ。しばらくして現れた朝子の両手には二人分の麦茶と古びた本が抱えられていた。 「これよ。どうぞ」 朝子が私の手を握り、本を手渡してきた。 黄色い、菜の花の匂いがした。 いや、これは庭に咲いた菜の花の匂いかもしれぬ。 とにかく、私は渡された本を開いてみた。そこには『雲』と記されている。『聖三稜玻璃』では、ない。 『雲』もまた、暮鳥の詩集の一つであった。目当ての本ではないものの、暮鳥の詩集には違いない。私は横からのぞき込む朝子の呼気にどきどきしながらその詩集を読んだ。 「私、この人の詩は匂いが感じられるから好き」 間近で、彼女が私の顔を見つめながら言った。 そのときの彼女の顔が忘れられない。 朝子はその二年後の春、庭に咲いた菜の花いちめんに赤い血を吐いて倒れ、そのまま帰らぬ人となった。 --------------------------------------------------------------------- |