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     - ただひとり  【夾竹桃】 -


 おほぞらのもとに 死ぬる
 はつ夏の こころ ああ ただひとり
 きようちくとうの くれなゐが
 はつなつのこころに しみてゆく

                八木重吉「秋の瞳」

 高校の一時期、私は毎朝学校の裏山を登ることを日課にしていた。
 山と言っても、そう高くはない。頂上まで登って下るのに一時間とかからない。
 季節は初夏である。
 この時期、早朝の山肌はまだ冷たい。
 森の、青々と茂った草木に阻まれて、陽光が地中に染み渡るまでにはまだ時間がかかる。ひんやりとした、春という季節の残り香を閉じ込めたままの、初夏の山の朝が私は大好きであった。
 朝六時に家を出て、どんなに遅くとも半頃には頂上につく。裏山の頂上にはむき出しのまるで人の肌のようなつるりとした岩がそこら中に転がっていて、そのひとつに腰掛けて実家の台所から失敬してきた弁当代わりの食パンに砂糖を振りかけて食べるのが私の隠れた楽しみであった。
 崖側の一際大きな岩の上に腰をかけると、そこから町の全てを俯瞰することができる。里村の八百屋が店を開け、石川のパン屋の煙突からはもくもくと煙が上がっている。私より一足遅く、町が起き出したのだ。
 それを確認しながら、私は食パンを食んでいく。パンが耳まですっかりなくなるころには、町の真ん中にある商店街がやおら活気づいている。その商店街の端にある木井の爺さんの古本屋がシャッターを上げるのを確認して私は山を下り始めるのだ。
 ふと、腰掛けていた岩から立ち上がった私の鼻に、桃に似た甘い匂いが届いた。あたりを見回しても、なにもない。
 初夏ともなると、草木は一斉に青くなる。桃のような色の花は、どこにも見当たらない。
 ざり、と土を踏む音が聞こえた。
 誰かが、私と同じ道を登ってきているのだ。
 私は岩を降りて、元来た道のほうに向き直った。
 登ってきたのは、老婆であった。
 知らない顔である。
 老婆はこちらに気がつくと、やんわり笑って挨拶をした。つられて、こちらも挨拶を返す。
「一番乗りかと思ったけれど、そうでもないのねえ」
 水分を含んだ、まだ張りの残っている声であった。
 老婆が、こちらに近づいてきた。
 甘い匂いが、強まった。
 その原因はすぐに分かった。
 老婆の手には赤いの花が一輪、握られていた。
 桃に似た、可憐な花がふたつみっつ、細い茎の先についている。
「おばあさんは、どうしてここに?」
 私は聞いた。
 その間にも、夾竹桃の赤い花が視界の端でゆらゆらと蠢いていた。不気味なものに見えて、私はそれを極力見ないよう努めた。
「ひとりじゃ、寂しかろうと思いましてねえ」
 そう言って、老婆は笑った。
 夾竹桃を抱えながら、老婆は先程まで私が座っていた岩に腰を下ろした。
「ここからなら、みんな見えるでしょう。ねえ……」
 呟くように、老婆は町を見下ろしながら言った。
 そうして、抱えていた夾竹桃を岩と岩の間の土に埋めた。
 もう、老婆には私が見えていないようであった。
 風が吹いた。
 生ぬるい風だ。
 その風に背を押されるようにして、私は一目散に元来た道を駆けだしていた。一瞬、視界の端に、夾竹桃に手を伸ばす老婆の姿が見えた。老婆は夾竹桃の葉をひとつ摘み、それを口のなかに入れた。
 それきり、私は裏山に登ることを止めた。老婆がどうなったのか、知る由もない。




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