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     - ユマ -


 それは十年ほど後のことだった。

 家の近所に、少し風変わりな少女が暮らしていた、らしい。その娘はいつも祈っていた。小さな公園にある滑り台の上で、ただ祈っていた。私が彼女と親しくなったのは見初めてからしばらく経ってからで、その間彼女の存在を知ってはいても接点はなく、いやむしろ持とうとも思わなかった。
 その少女は、白状するなら私にとって非常に好ましい外見をしていた。『何かに向かって盲目的に祈る(好みの)少女』と、ここだけ切り取って見れば、確かにどこか神秘的で言い得ぬ魅力を感じないでもないが、実際のところは如何に少女が美しくとも不審者以外の何者でもなく、積極的に近づこうなんて考えは起ころうはずもなかったのである。

 そんな少女と私が初めて明確に接触したのは、夏の、それも台風の日であった。もちろんそれまでにも何度も雨は降り、風の強い日もあったのだが、この日は少し違っていた。大型の台風一八号はこれまでの観測史上で希に見る非常に強力なものであった。街からは人が消え、小川のような川さえも氾濫してしまうほどの威力を持った台風が暴れ回っている最中にあってもなお、少女はちっぽけな公園の滑り台で祈りを捧げていたのである。たまたま用事を済ませた帰りにその姿を見たのは非常に不幸であった。全身に強雨を浴び、強風に飛ばされないように祈るその姿は健気なんて蹴り飛ばして惨めであるように思えた。
 そのようなものを見てしまったがために。
「死ぬ気か、馬鹿」
 気がついたら滑り台を駆け上がって少女の腕を掴んでいた。そのとき見開かれた彼女の瞳とその表情を、私は一生忘れないだろう。とにかくこのままではいけないと滑り台から引きずり下ろそうとするが、少女は一向に動こうとはしない。それどころか彼女は私に膝蹴りまで喰らわす始末である。その細身の身体から放たれたとは思えないような衝撃も、私は一生忘れないだろう。とにかく少女は頑なに滑り台から離れようとしない。かといって勝手にしろとも言えず、私がどうしたかといえば、ただ彼女の側にいるだけであった。幸いなことに彼女は滑り台に上がっただけでは振り落とそうとはしなかった。肩の触れる距離で、この豪雨の中、他人同士が、不明瞭な目的の為にただそこにいる。
 彼女との初めての接触は、そんな奇妙なものだった。

 季節が変わる頃には私たちの関係性は明確なものとなっていた。毎日、とまではいかないが、週のほとんどの、それもきまって夜の十時から十一時までのきっかり一時間を、彼女と滑り台の上で過ごすようになった。その一時間のあいだ、彼女は何も語らず、ただその瞳を閉じ、手を胸の前で組んで祈るのである。彼女と会話できるのはその一時間の前か後の少しの間だけだった。彼女は多く語らなかったが、その限られた時間の中で知ることのできた情報がいくつかある。
 彼女の名前は『ユマ』というらしい。両親は遠くに行ってしまって、今は一人で生活しているのだそうだ。その住処であるが、私の家から歩いて五分程度の古びたアパートに住んでいるようであった。また、彼女がこの深夜におこなっているのは祈祷ではなく、『通信』なのだそうだ。つまり、盲目的な信仰という部分は、むしろそれとは正反対の狂信的な毒電波であると認識を改めなければならないのである。それに加えて彼女は自分のことを宇宙人だなどと言い張るものだから手に負えない。
 しかし、それでも私はユマの側に居たいと思っていたし、彼女もまた私を拒否しないでいてくれた。ただそれだけで良かったのだ。嫌悪にも似た興味が反転し好意となり、私自身を突き動かすようになったのはいつからだっただろうか。兎角、秋の風が吹く頃にはすでに、私の心は彼女以外への興味を失っていたのである。

 そうして、吐く息も白くなり、雪が降り始めた頃であった。私とユマの関係が少し変化した。その日もいつものように滑り台に上がって空を見た。ただ今までと違う点があるとするなら身体を暖めるために用意したホットコーヒーが白い湯気を立てていることくらいだ。それ以外はすべて、同じ。一時間きっかりの『通信』を終え、コーヒーを手渡そうとしたとき、珍しく彼女の方から話しかけてきた。
「今日は大事な話があります」
 彼女の目は真剣だった。しかし何よりも、私はその瞳そのものに息をのんだ。あの日、あの嵐のような日に見開かれたあの瞳がそこにあった。ユマは確かに東洋人であるようだったが、彼女の瞳は碧色だった。彼女の艶やかな黒髪とはどこかミスマッチなその色合いが私の奥深くに何かを残していた。その瞳が、私に尋ねる。ただ一言なに、と返すと、
「あなたをメッセンジャーにしたいと思います」
 あまりに突飛で、その意図を掴むことができなかった。
「メッセンジャーって?」
「メッセンジャーはメッセンジャーです。私はあなたに伝えてほしいのです」
「伝えるって何を」
「それは・・・・・・いずれわかります。なので、どうか引き受けていただけないでしょうか」
 彼女が何の脈絡もなくおかしな話をするのは何も初めてのことではない。というより、誰に対してかわからないような『通信』をしてみたり、自分を宇宙人だと言ったりすることだって周りの常識に当てはめるならば十分におかしなことだ。それらを私は受け入れてきた。もちろん信じている訳ではない。これは子供のごっこ遊びに付き合うような感覚に似ていて、私はただ彼女が望んだ役割を演じていただけだった。ただし、私はユマの発言が嘘だとも思っていなかった。彼女が自分を宇宙人というのならば宇宙人なのだろうし、『通信』の相手だって私がしらないだけで、もしかしたら本当にいるのかもしれない。だからこのときも私はただ受け入れることにしたのだ。
「わかった。僕でいいならやるよ」
「ありがとう」
 その声にはどこか安堵が混じっていたようにおもう。それと、このとき初めてユマの笑顔を見た。少女らしい、無垢な笑顔だった。
 そうしてユマはポケットから何かを取り出し、私に手渡した。小さな、銀色のロケット・ペンダントだった。
「それは証明書のようなものです。今度からここに来るときは必ずそれを身につけてきてください。約束です」
 ロケットの中は空だった。ただ蓋の裏にT130087という番号だけが書かれている。恐らくシリアルナンバーか何かだろう。その番号以外に何か特別な点は見当たらない。私はありがとう、と一言礼を言ってそのロケットを首から下げた。
 深夜の公園を訪れるときだけに留まらず、僕は常にロケットを身につけた。後になって気づいたことだが、ロケットは太陽光に当てると七色に照り返した。それはまるで真珠のような輝きであり、中でもその緑色はユマの瞳を髣髴とさせるような色合いで、私はとても気に入っていた。その光を目にすることで、彼女が側にいるというように錯覚していただけなのかもしれないが。とにかくロケットの放つ輝きというのは地球に存在するどの金属よりも美しく感じられ、より一層の愛着を私に抱かせたのである。
 ただ、一つだけ不満、というか腑に落ちない部分もあった。写真がないのである。普通ロケットというのは大事な人、例えば家族であったり恋人だったりの写真を入れておくものだ。実際ユマから与えられたものにもそのスペースはあって、しっかり写真を入れることができるようにはなっている。ロケットを受け取った時点で、私はその中にはユマの写真を入れるものだとすっかり思いこんでしまっていたのだが、実際には、ユマに写真を撮らせてほしいと頼んだところで拒まれ、では彼女が自分で用意しているのかと思えばそうでもなかった。つまり写真を入れても良いが彼女の写真は承諾しないというのだ。これだけはいくら考えたって解らない。ただ一つ、合理的な説明をつけるならば、これはユマが僕をメッセンジャーにしたいと言い出したときのように、いや、そもそも宇宙人であるとカミングアウトした頃からずっと続いているごっこ遊びで、私に与えるのは特にロケットである必要はなく、ただ譲与したという事実だけあれば十分である、という仮説だった。もっとも、その真相は恐らく彼女自身にしか理解できないのだろうし、それ以上に私自身も彼女が満足しているならそれで良かったので、別段この件について深く考えるようなことはしなかったのではあるが。

 季節は一巡し、再び夏が訪れた。前年とは違い大きな台風も来ず、安穏な季節となった。
 そこでまた一つの大きな変化があった。
 その日は丁度あの台風が直撃した日でもあったようだが、私たちは気にも留めず既に日課となっている『通信』を行おうとしていた。いつも通りに滑り台に上がって空に向かって祈るように『通信』する直前、ユマが訊いた。
「あのときのペンダントは?」
「あるよ。ほら」
 首から下げていたロケットを見せる。
「うん、確認しただけ。あなたがそれを毎日身につけていてくれたのを私は知ってる。それも、ここに来るときだけでなく本当に毎日肌身離さずに」
 そっと目を閉じて、彼女は僕の手を掴んだ。
「今日は特別な日。だから一緒に『通信』しましょう」
「そうは言っても、僕はやり方を知らない」
「大丈夫、ただ呼べばいいの。ただ、呼べば」
「呼ぶって何を」
 彼女は一つ笑って、謳う。
「今日が終わって、昨日が始まる。明日のために、また生きる」
「誰の言葉?」
「星の言葉。今に解る」
 では、と会話を区切った彼女の瞳はいつも以上に真剣なものとなった。
「はじめましょう。あなたはただ呼んでいればいいから」
 一言添えて、ユマは『通信』を開始した。
 ただし、いつものそれとは明らかに違っていた。普段の『通信』では、彼女が何かしらの言葉を口にすることはなかった。これは一年間破られることのなかった鉄則であったのだが、今回はどうだろうか。普段の彼女からは想像できないほど流暢に、何かを唱えている。少なくとも日本語ではないようだったが、かといって他国の言語のようにも思えない。どちらかといえば、未開の土地で行われるような儀式なり呪術なりといったものを連想した方が的確かもしれない。この深夜に、ちっぽけな公園で、まだあどけなさの残っているような少女が、まじないめいた単語を一心不乱に放出させる。端から見ればこれほど奇妙なことはそう無いのだろうが、その最中にいた私は気にもしなかった。私はユマに言われたように、心の中で呼んだ。何を、ということではない。ただ呼んだのだ。少女の呪文が届かなくなるほどに意識を呼ぶことのみに集中した。
 どれほど経ったかは判らない。夢中になり、いつの間にか閉じられた瞼の向こうに、光が見えた。橙色の、火のような熱を持った色だった。同じくして、車のエンジン音と金属をこすり合わせた音を融合させたような不快感を伴う騒音も、鼓膜を痺れさせた。それがあまりにもまぶしく、あまりに五月蠅く、意識を戻した。そこに、
 巨大な円盤があった。二枚の皿を面同士で重ね合わせたようなそれは、赤く、緑に光りながら私たちの頭上に浮いていた。
「T130087」
 いつの間にか詠唱を止めたユマが私を見ながら言った。
「その番号は」
「個体番号T130087。あなたはこれよりメッセンジャーとしての役割を果たすのです」
 目の前の光景を理解するのに時間はかからなかった。あの光る円盤を見たとき総てが繋がってしまった。
「じゃあ、君は本当に」
 宇宙人だったのか。そんなくだらない言葉しか出てこない自分が情けない。そんなこと言わなくても解っていたのに。
「私は、私の素性を明かしました。驚くのは不可解です。もう時間がありませんので、あなたをメッセンジャーとして送ります」
 それが合図であったかのように、円盤の上下のプレートがそれぞれ逆方向に回転した。「僕をどうする」
「私たちはただ送るだけ。どうするかは、あなたが決める。メッセンジャーとして」
「メッセンジャーって何なんだ」
「メッセンジャーはメッセンジャーです。それはいずれわかります」
 円盤の底部から光が奔る。まるで映画のワンシーンみたいだと、悠長なことを考えながら、私は光に溶かされていった。そして、身体が消滅し、意識も無くなりかけた間際に、ユマは言った。
「十年後、またここであいましょう。そして」
 彼女が最後に何を告げたのか、気付けばそこだけが私の中から抜け落ちていた。

 そうして季節が十度巡った今、私はあの滑り台の上から夜星を眺めている。




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