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     - 指先の写真 -


 部屋を掃除していると、懐かしいものを見つけた。
 数年前の写真である。
 ログハウス調の屋内に、私の姿が写っているだけのものだが、いわゆるいわく付きのものであった。
 その写真の左上隅に、細長い影のようなものができていて、そのあたりの背景が隠れているのである。
 いわく付きといっても、幽霊写真と言うことではない。
 種を明かせば、これ、この写真を撮ってくれた人の左手の指先が写り込んだものである。
 この写真を撮ったのは、ある喫茶店のマスターだった。この写真のいわくも、彼から聞いたものである。
 私がその喫茶店を見つけたのは、知人と連れだって故郷である東北の一地方へ旅行に行ったときのことであった。知人を旅館に残し、ひとり散策にふけっていたとき、たまたま入ったのがこの喫茶店であった。
 喫茶店『手先亭』。
 そう書かれた看板を提げた扉を開けてなかに入ると、四十代くらいの男の人が店内を掃除しているところであった。
 彼は私に気がつくとすぐに、いらっしゃいませ、と言ってお冷やとメニューを持ってきた。
 私はカウンター席に座り、店内を見回した。
 手先亭は壁から天井からテーブル、椅子に至るまで全て木で作られていた。テーブルや椅子の少々歪な形を見るに、全て手作りなのだろう。
 そのほかに私の目にとまったのは、壁に掛けられた沢山の写真であった。
 野山の草々、渓流の飛沫、空模様など、色々な自然の顔がその写真のなかに納められていたのだが、奇妙なことに、それらの写真にはある共通点があった。
 写真の左上隅に、左手の指先が写り込んで、背景が隠れて見えなくなっているのである。
 写真を撮影したとき、その隅に自分の指先が写り込んでしまうのは、ままあることだ。
 しかし、壁に掛けられた写真の全てに自分の指先が写り込んでいるなど、なかなか考えられぬ事である。
 そのことを奇妙に思って、私は注文を取りに来たマスターに訊いてみることにしたのであった。
「ああ、あれはちょっとしたいわくがありまして」
 そう言いながら、マスターは壁に掛かった写真を見つめていた。
「へえ、それは是非とも聞きたいなあ」
 そう言う私の口ぶりに苦笑しながら、結局、店の一番高いメニューと引き替えに、マスターはその話を始めたのであった。

   ◆

 彼が中学のとき、誕生日のプレゼントにポラロイドカメラを買ってもらった。
 結構前に流行った、撮影した瞬間にカメラの下の口からべろー、と写真がはき出されるあれである。
 私も小さいときに使ったことがあるから分かるが、あれはなかなか面白い。
 彼はそれを使って、夏休みの間、バイトをすることにした。
 彼の故郷には手先岬という店名の由来にもなった岬があり、そこがひとつの観光名所でもあった。
 岬の形が海に向かって指を伸ばしたようになっているのだが、そこらの登山道ながらに急な勾配となっているため、爪の先まで登ると高くから海を眺めることのできる絶景スポットであった。
 岬の指の付け根にある食事処からそこまでは、往復で十五分とかからない。
 彼が思いついたのは、いわゆる写真サービスであった。
 食事処に待機して、これから岬に登る観光客に声をかけ、岬の先に着いたところをこの辺りから撮影しますよ、という言わば登山成功記念写真のようなものを客に買ってもらうのだ。
 観光名所といえども、岬を訪れるのは一日に十人かそこらであった。
 それでも、当時中学生であった彼には破格のお小遣いを頂くことができたようである。
 夏休みも終わりに近づいていたある日、初老の男が手先岬の食事処にやってきた。
 やせこけていて、青白い、今にも倒れそうな風貌の男であった。
 その日は風が強く、岬に登る人を彼はまだ見ていなかった。彼はこの人で今日は最後にしようと思いつつ、男に声をかけた。
 男の声は、嗄れていた。
 男は、干からびたような目で彼を睨み、言った。
「小僧は、カメラが好きか」
 威圧するような、低く静かな声であった。
 はい、と彼は答えた。
「そうか」
とだけ答えて、男は岬のほうへ歩いていった。
 その後を彼がつけていく。
 岬の入り口まで来たとき、男は足を止めて、ぽつりと呟いた。
「寒いな」
 男が、彼のほうを振り向いた。
「これをやる」
 言って、男は懐からカメラを取り出し、彼の手に置いた。
 男の手は、ごつごつとした無骨な手であった。
 渡されたカメラは、ライカという名の高級カメラであった。
「写真は撮らなくていい。寒くなってきた。もう帰れ」
 そう言って、男はまた岬を歩き始めた。
 彼は急いで食事処まで戻り、鞄にライカをしまうと、すぐさま岬まで戻っていった。
 岬の先に、男の姿を探した。
 男は、ゆっくりと、岬の先端を目指して登っていた。
 彼は、急いでポラロイドカメラを構えた。
 ファインダー越しに見える視界に、男の姿を捉えた。
 男は、ゆっくりと登っていった。
 一歩ずつ、慎重に、まるで天に昇るかのように進んでいった。
 それを、彼はじっとファインダー越しに見ていた。
 男の足が、止まった。
 岬の先端に、来ていた。
 男は、じっと、動かない。
 ファインダーの中央に、男の姿を捉えた。
 シャッターを、押した。
 そのとき、強い海風が吹いて、彼の身体が大きく傾いた。
 がりがりがり、と無機質な音を立てながら、カメラから写真がはき出された。
 その写真は彼の捉えた光景から、大きくずれていた。
 中央には岬の右側、何もない空が写っていて、肝心の岬の先端は左上隅にずれていた。
 そこには、自分の左手の指先が写り込んでいて、岬の先端にいるはずの男の身体が隠れていた。
 彼は慌てて、再びカメラを構えなおした。
 ファインダーをのぞいて、岬の先端を捉えたとき、そこに男の身体はなかった。
 辺りを見ても、男の身体は、どこにもない。
 そのまま呆然として、彼はカメラを構え続けていた。
 風が吹いて、写真が宙を舞った。
 それは、自分の撮影した、自らの左手の指先が写り込んだ写真であった。
 その写真が、風に舞って、海へと飛んでいった。

   ◆

「あれ以来、どうしても、自分の撮る写真には左手の指先が写り込むようになってしまいましてね」
 そう言って、マスターは壁に掛けられた写真を指差した。
「その人から貰ったカメラは、どうしたんですか?」
「そのバイトで稼いだ金を全部つぎ込んで、供養してもらいましたよ」
 マスターは、店の奥からなにかを手に抱えてきた。
 それは、古びたポラロイドカメラだった。
「どちらにしろ、私が写真好きなのは変わりませんから。どうです、記念に、一枚」
 そう言って、彼はカメラを構えた。
「いいですね。では、一枚」
 私がそう言うやいなや、彼の手が動いてシャッターが切られた。
 べろー、と珍奇で無機質な音を立てながら、カメラから写真がはき出された。
 そういった経緯の写真が、久しぶりに我が家から発掘されたのである。
 懐かしくなって電話で友人にその喫茶店のことを訊いてみたが、ちょっと前に引っ越したのだそうだ。
 連絡先でも聞いておけばと残念に思ったが、すぐにまあいいか、となって、私はその写真を写真立てに入れて部屋の掃除を再開したのであった。




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