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     - 黄昏工房 -


「黄昏をね、作っているんですよ」
 青年は言った。
 凛とした、良く通る声であった。
「ほら僕、目が見えないでしょう」
 青年は笑っている。
 細く閉じた両眼は、ぴんと張った一本の糸のようであった。
「だから、今まで一度も見たことがないんです」
 だから、作っているのだと青年は言った。
 青年の左手が、キャンパスに立てられた画用紙の上をなぞっている。
 青年は、左手の人差し指に直接絵の具を塗って、画用紙に太い線を走らせていた。
 青年は、柔和に笑っている。
「ねえお姉さま。ひとつ、教えていただきたいのです」
 青年は言った。
 わたしは、答えなかった。
 お姉さまとは、わたしのことだろうか。
 それとも、少年が呼びかけているのは、別の誰かなのか。
 画用紙が、染まってゆく。
 汚れた色であった。
 青年には、色の区別がついていないようであった。
 絵の具が足りなくなれば、自分の指先に直接絵の具を足していく。
「お姉さま、あなたの見た黄昏とは、どのようなものなのですか」
 青年の指が、乱雑に、がさがさの画用紙の上を滑っている。
 指先にべっとりとこびり付いた絵の具の下に見えるのは、象牙色の人差し指だ。
 細い、とてもきれいな、指先。
「教えてください。お姉さまの見た黄昏とは、どのようなものなのですか」
 青年は言った。
 泣きそうな声であった。
「お姉さま、お願いします」
 青年の顔は笑っているのに、その声にはとても悲痛な響きがあった。
「僕に、黄昏を作らせてください」
 青年の指が、ぐちゃぐちゃに汚れた画用紙の上を滑り続けている。
 絵の具の上に、新しい絵の具が重なっていく。
 緑色に見えた場所が、青年の指になぞられて、どす黒い黄色になる。
 画用紙の上に重なった絵の具の層が、次々に色を変え、混ざり合っていく。
 やがて、出来上がるのは真っ黒になってしまった一枚の画用紙だ。
 黒色といっても、それは原色の黒ではない。
 様々な色が堆積して出来た、色彩の集合体である。
 青年の指が止まった。
 ちぇ、と小さく声を吐いた。
 青年は、大きな木彫りの作業机の引き出しからマッチを取り出すと、それの一本に火を灯した。
「また、失敗しちゃった」
 青年はそう言って、画用紙に火をつけた。
 黒色の画用紙が、橙色の火をあげて、燃えていく。
 じりじりと、燃えている。
 ふと、その色合いの中に、わたしは何かを思い出していた。
 炎と、灰と、画用紙。
 橙色。
 灰色。
 黒色。
 大きな山。
 微風。
 ざわざわと、葉擦れの音がする。
 秋だ。
 楓の紅葉や、山毛欅の黄葉が、水溜まりに溢れている。
 落葉が、額に当たった。
 それは、湿っていた。
 ああ。
 昼頃まで、雨が降っていたからな。
 青年が、新しい画用紙に指をかけた。
 わたしは、顔を上げた。
 正面に、山が見える。
 もう、その山巓にまで、真っ黒な闇がかかっていた。
 山は、橙色だ。
 沈みかけた太陽の光が、濡れた紅葉に反射して、山を橙色に染めている。
 橙色の空を、鳥が飛んでいる。
 かあ、かあと鳴く、烏の群れだ。
 灰色の建物。
 青年の指が動く。
 動くもののない橙色の空間を、心地良い風に乗って落葉が流れていく。
 懐かしい光景であった。
 この光景を、わたしは知っている。
 橙色に燃えている、山の頂。
 それが少しずつ、真っ暗な闇に呑み込まれていく。
 わたしは、青年のほうを見た。
 それは、青年ではなかった。
 少年であった。
 先程の青年とは全く違う、粗末な少年の姿がそこにあった。
 少年は、じい、と山のほうを見つめている。
 見えない山の参道を探すかのように、遠くに目を凝らしている。
 おまえは、なにをそんなに見つめているんだ。
 他の子供たちはどうした。
 隠れんぼの途中じゃなかったのか。
 山の、森が、揺れている。
 木々が、風に揺さぶられている。
 ひらひらと舞う落葉。
 このときだ。
 このときからわたしは、山に魅せられていたのだ。
 黄昏の山だ。
 橙色の山だ。
 少年が、歩き出した。
 だめだ。
 行ってはならない。
 このあと、わたしの両親がどれほどおまえを心配したと思っているんだ。
 少年の目は、山に魅せられている。
 ゆらゆらと蠢く、山の木々。
 わたしはこのとき、初めて山が生きているのだと知った。
 山は、様々なものを隠す。
 おまえも、隠されに行くのか。
 待て。
 少年は、歩みを止めない。
 わたしは、動けなかった。
 次第に、暗くなっていく。
 少年には、何も見えていない。
 その目はただ、山の手招きを追っている。
 真っ暗になっていく。
 山の峰は、もう見えない。
 橙色が、黒く塗りつぶされていく。
 それは、濃密な質量を持った、色彩の集合体である黒だ。
 少年は、歩みを止めない。
 灰色の道が、暗くなっていく。
 太陽が沈んでいく。
 夜になる。
 真っ黒な夜が来る。
 少年は、歩みを止めない。
 その様子を、わたしは静かに見つめている。
 黄昏が終わる。
 橙色が、塗り変わっていく。
 夜が来る。
 山はもう、見えない。
 少年の姿は、見えなくなっていた。

 ふと、あの青年の声が聞こえた。
 柔らかな、感謝の言葉であった。

     ◆

 目が覚めていた。
 どうやら、夢を見ていたらしい。
 ここは――
 唐松の木々。
 降り注ぐ紅葉。
 地面は、湿った土だ。
 山の中。
 見上げると、土の崖の上に細い参道らしき道が見える。よく見てみると、小さな砂利がぼろぼろと崩れて落ちてきている。
 あそこから足を滑らせて、ここに落ちたのか。
 傍らに壊れたカメラがある。
 仕事で、山の景色を撮るために使っていたものだ。
 体中が、痛い。
 動けない。
 右足を少し動かしただけで、全身に激痛が走った。
 崖は、柔らかな腐植土で出来ている。
 高さはそれ程もない。
 普段ならばひょいと登っていけるが、どうやらそれすら出来ないようであった。
 このまま、ここで死んでいくのか。
 また、山の中に隠されるのか。
 わたしを探してくれる人は、もういない。
 空を仰いだ。
 橙色の空だ。
 木々の間から、暖かな陽光が直接わたしの身体に降り注いでいる。
 心地が良かった。
 このまま目をつぶれば、山と一体になれるような気がした。
 それも、いいのだろうと思った。
 ゆっくり、目蓋を閉じていく。
 疲れが抜けていくような感覚だった。
 どれほどの時間、そうしていただろうか。
「大丈夫ですか――」
 急に、声が聞こえた。
 目を開くと、崖の上にひとりの女性が立っていた。
 まだ若い、優しげな瞳の女性であった。
「動けますか」
 女性が大声で訊いた。わたしは、首を横に振った。
 崖の上からロープが下りてきて、それを伝って女性が降りてきた。
 軽装の女性だ。
 小さなザックを背負っている。
 女性はわたしの前に屈むと、背のザックを降ろして中から白い綺麗な布を取り出した。
「今はこれしかなくて……。痛めたのはどこですか」
 女性の言葉に、わたしは右足を指さして答えた。
 そのとき、女性のザックの中に、わたしはあるものを見つけていた。
「それは――」
 わたしは、思わず声を上げていた。
 右足を布で固定し終わった彼女が、わたしの目線の方向へ振り返った。
 それは、絵の具と、画用紙であった。
 それを見た彼女が、小さく微笑んだ。
「あれは、弟のものなんですよ」
 柔らかな口調で、彼女はそう言った。
「弟は、この山で死んだんです。この山の黄昏時を描きたいって言ってね」
 彼女は、寂しそうに笑って、降りてきた崖の上を見上げた。
「ちょうどあそこに、弟の参り墓があるんですよ。生まれつき目が弱いのに、絵を描くのが好きな人だったから、こうして絵の具と画用紙を供えているんです」
 彼女は、わたしの方を振り返った。
「もしかしたら、弟があなたのことを教えてくれたのかもしれませんね」
 わたしは、謝ることもできなかった。
 ただ、沈黙していた。
 彼女は、ザックに白い布を仕舞うと、それを担いで立ち上がった。
「とりあえず、山を下りましょう。麓まで降りれば私の家がありますから」
 彼女はそう言って、わたしの身体を抱え起こした。
 ふと頭のなかを、あの青年の顔がよぎった。
「その青年は、左利きでしたか――」
 思わず、わたしは訊いていた。
 彼女は少しだけ驚いた顔をすると、はい、と短く言った。
 そうですか、と答えて、わたしは彼女に支えられながら山を下っていった。
 空は既に、真っ黒な闇に包まれていた。




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