-      -



     - 落葉釣り -


 その森は、瑞々しい落葉に埋め尽くされていた。
 風が吹くたび、密になった木々がざあ、と揺らめいて、次々と落葉を産み落としてゆく。
 その風の流れに乗って、極彩色の落葉が、目の前を優雅に泳いでいった。
 目線を落としてみても、土の表面は見えない。
 全ての地面が、赤や、黄や、橙の落葉に喰われてしまったように感じた。
 落葉は、絶えることなく降ってくる。
 頭の上に、何かが落ちてきた。
 見れば、それは楓の葉であった。
 じゅくりと紅潮した、艶のある落葉。
 枯れて落ちてきたわけではない、水気をたっぷりと含んだ、熟した林檎のような葉。
 天を見上げてみれば、そのような葉が次々と落ちてくる。
 思わず差し出した掌に、一枚の落葉が乗り、するりと抜けて地面に落ちていった。
 ひんやりとした感触があった。
 この森は、落葉によって出来ていた。
 すべての葉が、この空間の背景となっていた。

   ◆

 男は、自分が何故このような場所にいるのか、理解できなかった。
 突然、立ったまま目が覚めて、ここにいた。
 落葉の森。
 秋になれば、殆どの森が落葉に埋め尽くされる。
 だが、この場所はそれとは違うように思えた。
 まるで、落葉に埋め尽くされるためだけにできたような森。
 男には、そう思えた。
 それが悪いことだとも思えなかった。
 何千何万と森があるならば、ひとつぐらい、落葉のための森があっても良いと思う。
 男は長年、渓流釣りを嗜んできた。
 だから、森というものも、何度とも見てきている。
 春の森。
 夏の森。
 秋の森。
 冬の森。
 それらすべての森には、何らかの意志のようなものを感じた。
 すべての季節に堆積した、森の記憶のようなもの。
 森が、生きるための記憶だ。
 毎年、誰が何をしたわけでもなく、つぼみを出し、緑色になって、褪色し、枯れてゆく。
 森は、それを幾年も幾年も繰り返してきた。
 だが、この森は違った。
 この森は、その記憶を枯らすために、葉を落としているのではあるまいか。
 この森の記憶が枯れるまで、この森の秋は続くのだろう。
 そうして、すべて枯れたら、冬を越しても、もうこの森は新しく機能しないのだろう。
 この森は、死んでいくのだと思った。
 今まさに、この森は死へと近づいているのだ。
 すべて、男の想像である。
 だが、あながち間違いではないと思っている。
 よしんば間違っていたところで、誰がそれを咎めるわけでもない。

   ◆

 瀬音が聞こえる。
 渓流があるのだ。
 男は、踏み固められた落葉の道から横にそれて、傾斜を降りていった。
 靴を傾斜に引っかけると、茶色の土が剥き出しになった。
 それも、すぐに落葉に覆われて、見えなくなった。
 傾斜を降りた男の目の前に、渓流が現れた。
 白い瀬に、透明な水の流れ。
 その上に、何枚もの落葉が重なっている。
 流れに乗って、落葉が渓を下ってゆく。
 男は、その様子を黙って見つめ続けていた。
「やあ、あんた」
 ふと、横合いから声がかかった。
 初老の男が、落葉の上に座して、渓へと竿を出していた。
「釣りかね」
 老人が言った。
 嗄れた声だった。
 釣り。
 そうだ、おれは釣りをしていたのではなかったか。
 男の動きが止まった。
「うん?」
 老人が、首を傾げた。
 そのまま竿を振った。
 見たことのない仕掛けであった。
「掛かりが悪いな」
 そう言って、老人は、対岸の落ち窪へと浮子を落とした。
 見事な竿捌きだった。
「あなたは、何をしているのですか」
 男が訊いた。
 長い沈黙が続いた。
 ざあざあと、渓のせせらぎの音だけが、森に響いている。
 やがて、老人が口を開いた。
「落葉釣りさ」
「落葉釣り?」
「そうさ」
「なんですか、それは」
 老人は答えなかった。
 かわりに、くい、と小さく竿を引いた。
 その瞬間、白い瀬にそって流れていたはずの浮子が、急に視界から消えた。
 魚信アタリがあった。
 竿が、ぐいと引かれる。
 糸が、水の上を滑る。
 じゃばん、という水飛沫が上がった。
 老人が立ち上がった。
 獲物が水中を舞う動きに合わせて、竿を振るう。
 ぐいぐいと、竿がしなる。
 男は、興奮していた。
 そうだ、おれは――
 老人が、大きく竿を引いた。
 岸へと抜ききった。
 その先で、針に刺さった獲物が、石の上でびちびちと跳ねていた。
 それは、落葉であった。
 橙の、大きな楡の葉。
 厚みをもった瑞々しい楡の落葉が、老人の目の前でびちびちと跳ねていた。
「これが、落葉釣りさ」
 老人が言った。
 老人は丁寧に落葉から針を剥がし、魚籠びくへとつっこんだ。
 男は、震えていた。
 すべてを思い出していた。
 おれは、釣りへと出掛けたのだ。
 誰にも知られぬ、秘境とも呼べる場所へ。
 流れも速く、危険だが、だからこそ誰も近づかない。
 そうして。
「やるかね。あんたも」
 老人が、竿をつき出してきた。
「あんたも、釣り人だろう」
 あの水の流れは冷たかった。
 体中から、息が抜けていく感覚があった。
「ほれ、どうだ」
 竿を手放した。
 それでも間に合わなかった。
 足場が崩れた。
 もの凄い音がする。
 滝が、水面を叩いているのだ。
 それほどの上流だった。
「ほれ、ほれ」
 老人が迫ってくる。
 そうだ。あの引きは、魚では有り得なかった。
 まるで、誰かに水中から糸を引き寄せられたような――
 男は、走った。
 もと来た傾斜を登り、全速力で走った。
 落葉で、先がよく見えない。
 後ろを振り返った。
 老人が立っていた。
 追ってはこなかった。
 その老人は憎々しげに顔を歪め、口を開いた。
「糞。ようやく引き込めるかと思ったのによ――」

   ◆

 目が覚めたときには、病院にいた。
 どうやら、釣りに行って、そのまま川底へ引き込まれたらしい。
 助かったのは、運が良かった。
 偶然、下流のポイントで釣っていた人の竿に引っかかり、助かったのであった。
 その人によれば、この身体にはびっしりと、落葉が付着していたらしい。
 竿も糸も仕掛けも、他のものはすべて流されてしまった。
 それでいいのだと思う。
 もう、釣りなどしないのだろう。
 何気なく、窓の外を見た。
 びゅうと吹いた風が、庭に植え付けられた枯れ木の、最後の葉を空に攫っていった。
 季節はこれから冬に向かう。
 早めの寒風が、かたかたと、病院の窓を揺らしていた。

 後日、業者が川をならすために渓流の川底をさらったところ、男が溺れた場所の近くから、一体の水死体が上がった。
 その死体は、真新しい釣り糸を右手でがしりと掴み、その体中が、瑞々しい落葉に覆われていたのだという。




---------------------------------------------------------------------