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     - 押し入れの奥 -


   *

 その日以来、私はこの部屋の押し入れのなかを覗くことができなくなった。

   *

 それに気づいたのは、私がこの部屋に引っ越してきて一ヶ月ほどのことであった。
 その日、友人の亜紀からメールがあった。亜紀の幼なじみである恭介がどこに行ったか知らないかという内容であった。
 その返信をしようとしたとき、それに気づいたのだ。
 物置の近くの床に、赤黒い固形化した絵の具のようなものがこびり付いていた。
 よくよく観察してみれば、それは血の跡であった。
 その瞬間、私は全身の血の気が、さあ、と引いていくのを感じた。
 とにかく、どうにかこれを消さなければならない。
 私は台所の流し台に放置されていた布巾を手に取ると、その血の場所まで駆け戻り、ごしごしと何度も渇いた血の跡を拭った。
 その日以来、私はこの部屋に自分以外の人間がいることを意識するようになっていった。
 私の部屋は大学から少し離れた場所にある安アパートの二階に位置している。
 玄関を抜けるとすぐに台所があり、そこから居間に直接通じている。居間の正面には窓があり、そこを開けておくと向かいの路地に咲いた桜の花びらが春風に乗って部屋に入ってくることがよくあった。
 居間の左手側には、少々大きめの押し入れがある。
その押し入れの襖は私が住み始めた頃から薄黄色に変色していて、このアパートの築年を感じさせた。
 私は子どもの頃、押し入れが好きだった。
 田舎の知人の家が立派な日本家屋で、幼い頃にそこに行くとよくその家の子どもたちと隠れ鬼をしたものであった。そのとき、私はいつも押し入れのなかに隠れていたのですぐに見つかってしまっていた。
 押し入れのなかに隠れているときに私が感じたあの安心感は、一体何であったのだろう。古屋敷の木の匂いが私にそう感じさせたのか、とにかく幼い私にとって押し入れとは安全地帯であったのだ。
 だが、今の私にとっての押し入れは全く逆の意味を持つようになってしまった。
 あの押し入れのなかには、絶対にあれがいる。
 そのことを考えるだけで、私は夜も眠れなくなった。
 あの押し入れは開かない。
 開いてはいけない。
 今、あの押し入れがどうなっているかなんて、私は確認したくもない。
 夜になって、目を瞑ると私の想像のなかであの押し入れが開かれ、あれが姿を現すのだ。
 それは、一歩、一歩、ゆっくりと私に迫ってくる。
 私は布団のなかに縮こまって、真っ暗な恐怖と戦いながら夜を過ごすのである。
 一度、押し入れを開いてなかを確認すれば楽になれるのかもしれない。
 まだ日の高い昼時に、押し入れの扉を開いて、何も変わっていないことを確認してすぐ閉める。
 それだけで、私の恐怖はかなり和らぐだろう。
 だが、それだけのことが私にはできない。
 あの押し入れを開けることが、怖い。
 もし、押し入れのなかが変わっていたら。
 前に、亜紀が笑いながら話していたことがある。
 他の部屋の押し入れの床に穴を開けて、家主の知らない間に空き巣を繰り返していたという話だ。
 亜紀は、そういった話を集めるのが好きだ。
 他にも押し入れに関する話はたくさんあったらしいが、私はそれを聞くのを遠慮した。
 そういえば、亜紀にも全然会っていない。
 でも、会えるはずがない。
 会えば、亜紀は鋭いから全てを理解するだろう。
 そうして、亜紀なら躊躇なくあの押し入れを開けてしまう。
 それが、怖い。
 ふらふらと立ち上がって、机に向かった。
 明日の、大学に提出する書類を書かなければならない。
 そのとき、私はそれに気づいた。
 机に置かれた、鍵の束。
 そのなかの一本が、なくなっていた。
 それは私の部屋の鍵であった。

   *

 部屋の鍵を無くした数日後、一度だけ部屋を開けている間に物の配置が変わっていることがあった。
 財布や、カード類に手をつけて無いところを見ると空き巣ではないようであった。
 無くなった物も何もない。
 悩んだ末、このことは誰にも言わないことにした。
 私は、この部屋に誰も上げたくなかった。
 誰かを上げて、ふとした拍子に押し入れが開いてしまったら。
 一応押し入れ以外の場所は確認して、カメラとかが無いことを確認した。
 これからは、なるべくこの部屋を開けないようにしなくては。
 時計を見ると、既に夜の十一時を回っていた。
 今日も、あの夜が来る。
 真っ黒な想像の恐怖に苛まれる、私だけの夜だ。
 窓にカーテンをかけ忘れていたことに気付き、私は窓に近づき、何気なく外の路地を見た。
 そこに、いた。
 女だ。
 背の高い女が、こちらを見上げている。
 眼はぎらりとこちらを睨んでいるのに、口元にはにたりとした笑みが浮かんでいる。
 その女は、明らかにこちらを見つめ、真っ暗な路地にひとり立っていた。
 どうして。
 いつから。
「なんで、亜紀が……」
 私は寝間着姿なのも厭わずに、玄関を出て亜紀の立っていた路地へ駆け出した。
 そこには、誰もいなかった。
 ぞくりと、背中を冷たいものが走った。
 真っ暗な路地に、突然明るい音楽が流れ出した。
 寝間着のポケットに入れた携帯の着信音であった。
 電話だ。
 ディスプレイには、亜紀の名前が表示されていた。
「もしもし。亜紀、亜紀なの?」
 私は半狂乱になりながら、誰もいない路地の真ん中で携帯に向かって叫んでいた。
 長いこと、電話口は沈黙していただけであった。
 やがて、ぼそりと呟く声がした。
 その声を聞いたとき、私は恐怖で狂いそうであった。
 すぐに部屋に戻り、電気をつけたまま、布団のなかに潜ってがたがたと震え続けていた。
 それでも、頭のなかにこびり付いた声は離れてくれなかった。
 ――明日の、夜。

   *

 押し入れが、開いた。
 そこから出てくるのは、無形の、恐怖であった。
 私は逃げ出すように、寝間着姿のまま窓まで走った。
 そこから路地を見ると、亜紀がいて、笑みを浮かべたまま、私に何かを言った。
 ひたり、と私の肩に触れるものがあった。
 それは、押し入れのなかのものであった。
 それが、私に何かを言った。
 ――全て、おまえがやったのだ。
 目を覚ました。
 疲れて、昼過ぎからそのまま眠ってしまったようであった。
 時計を見る。
 既に、夜の十一時を回っていた。
 はっとして、押し入れのほうを見た。
 押し入れは、開いていない。
 何も変わった様子はなかった。
 そのとき、机の上で、何かのメロディが流れ出した。
 携帯の、着信音。
 ディスプレイには、亜紀の名前があった。
 おそるおそる手を伸ばし、通話ボタンを押した。
 ――今から、行くから。
 掠れた声で、そう聞こえた。
 私はまた、がたがたと震え始めた。
「どうしてこういうことをするの? ねえ、亜紀」
 叫んだ。
 しかし、返事は何もなかった。
 また、静寂が訪れた。
 しばらくして、呼び鈴の音が鳴った。
「開けてよ、ねえ」
 亜紀の声がした。
 私は、一歩も動けなかった。
 一度きりの呼び鈴の音が止んだ後、また少しの時間部屋は静かになった。
 どんどんどん、と扉を叩く音が、部屋中に木霊した。
 一度や二度ではない。
 扉が壊れるのではないかと思うほどに、狂ったように扉が叩かれた。
 それも止むと、また静かになった。
 がちゃり、という音がした。
 ドアノブが、回った。
 錆びた蝶番が、きぃと音を立てた。
「亜紀……」
 扉が開いた。
 昨夜のようにこちらを睨み、笑っている亜紀が、そこにいた。
「久しぶりね。開けてくれないから、鍵使っちゃった」
 亜紀の手に握られていたのは、私が無くしたこの部屋の鍵であった。
「それにしても、酷い匂いね。よくこんなところで生きていけるわ」
「亜紀、どうして……」
 亜紀は、ゆっくりと台所を通り、居間に上がった。
「その押し入れを、開けるのよ」
 亜紀は、そう言った。
 そうして、またゆっくりと押し入れのほうへ近づいていった。
「やめて、それを開くと――」
「黙れ」
 亜紀が短く言った。
 憤怒の表情で、こちらを睨んでいた。
「おまえが、やったことだろうが」
 亜紀が、襖に手をかけた。
「返してもらうよ。私の、大切な――」
 亜紀の手が、横に大きく動いた。
 がら、と押し入れが開かれた。
 その瞬間、私は亜紀に向かって駆け出していた。
 押し入れのなかを見た亜紀が、悲しそうな顔して、こちらを振り向いた。
 何かを言おうとして、それは、言葉にならなかった。
 亜紀が、どさりと倒れた。
 その奥、押し入れのなかが、私の視界に入った。
 私はひとり、叫んだ。

   *

「何も、前と変わったところなんてないじゃない」
 押し入れのなかを見て、私はそう呟いた。
 やはり、押し入れのなかは安全地帯なのかもしれない。
 一度確認してしまえばもう怖くない。
 明日から、夜ごと形のない恐怖に苛まれることもなくなるだろう。
 腹部を刺され、息絶えた亜紀の死体を、恭介の横に置いた。
「よかったわね、亜紀。恋人と再会できて」
 そう言いながら、私は押し入れの扉を閉めた。




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