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     - 壁と霧 -


 今日も、赤のところへ行こうと思う。
 左側にある壁に手をつきながら、真っ白な霧のなかを僕は進んでいく。
 この壁は、僕のような放浪者が霧のなかで進路を見失うことのないように建てられたものだ。霧のせいでその全てを確認することはできないが、天まで届くような巨大な壁なのだろうと僕は勝手に思っている。
 今日も、霧が深い。
 真っ白な世界のなかで僕が感じ取れるものは、左手と壁の擦れるざらざらとした感触と、靴底が地面を蹴るたびに鳴るざりざりという音だけだ。
 今までずっと壁に手を当てながら霧のなかを移動してきたものだから、僕の左手は既に皮膚の大部分が剥けて土と血の混じった固い肉が剥き出しになってしまっている。
 それでも、僕たち放浪者はこの壁から手を離すわけにはいかない。
 どこまでも続くこの固い壁に沿って歩いていくことが、霧に包まれたこの世界を放浪するただひとつの方法だからだ。
 そういえば、赤のやつも最初この手を見たときはとても驚いていたな。
 赤は元から定住者だったから、壁に沿ってこの世界を歩いて行くだなんて思いもしなかったのだろう。
 そうか。
 赤のことを考えよう。
 霧のなかで何も考えず、ぼうっとしていたら希薄になってしまう。
 そうなったものたちを、僕は何度も見てきたのだ。
 赤に、ちゃんとした名前はない。
 原色の絵の具のような赤い髪と眼をしていたから、僕が勝手に赤と呼んでいるだけだ。
 それは僕も同様である。
 ちゃんとした名前のない僕は、赤からは青と呼ばれている。
 無論、僕の髪も眼も青色ではない。
 赤が何故僕を青と呼んでいるのかは分からないが、特に深い理由はないのだろう。
 赤は、僕が初めて見た“ひと”だ。
 今までも霧のなかに“かげ”の姿を見ることはあったし、動かない“ひと”の姿なら僕も何度か見たことがある。
 それでも、僕と同じ生きている“ひと”の、しかも“おんな”を見たのは初めてだった。
 初めて赤の姿を見たとき、僕の心臓が一度どくん、と大きく揺れたのを覚えている。
 僕は、赤のことを好きになっているのだ。
 だからこそ、僕はずっと続けてきた放浪を止め、赤の近くに留まって食事をしているのだろう。
 元々は放浪も定住もこの世界から救われるために行われていたことだ。
 壁に沿ってずっと進んでいけばいつか霧の晴れた場所に辿り着くだろうと考えた放浪者と、その場でずっと待っていればいつか霧が晴れるだろうと考えた定住者。
 でも、今はもうその行為に意味はない。
 この霧は、晴れないのだ。
 今日も、世界は真っ白だ。
 その真っ白な視界の隅に、ちろちろと煤のような黒いものが浮き沈みしている。
 “かげ”だ。
 “ひと”ではないが、ひとに見えるもの。
 あれは、なんなのだろうか。
 何かのなれの果てなのか。
 それともあれは、何かになろうとしている最中なのだろうか。
 何故この霧のなかには“ひと”と“かげ”しかいないのか。
 ああ。
 おなかがすいた。
 赤はまだか。
 赤は。
 赤い。
 それに、右手が触れた。
「やあ、青」
 霧のなかで、赤が言った。
「きみは、本当にこの髪が好きなんだね」
 霧のせいで、すぐ近くにいるはずの赤の顔すら、よく見えない。
「ああ、赤」
 僕は言った。
「僕は、赤のことが好きだよ」
 赤は、そうか、と言って微笑した。
「おなかはすいているかい」
 僕は頷いた。
「私もだ」
 顔に、柔らかいものが触れる感触があった。
「食事にしよう」
 それは、赤の手であった。
 その手が肌を滑り、首の後ろに回った。
 赤のいるほうへ、僕は顔を近づけていく。
 それは、赤も一緒であった。
 この食事の瞬間にだけ、僕は赤の可愛い顔を見ることができる。
 僕と、赤の顔が近づいていって、
「ああ――」
 同時に、首に噛みついた。
 赤の、柔らかな肉が、口いっぱいに広がっていく。
 血が吹き出た。
 それを、一滴も逃すまいと、僕はさらに赤の首の奥まで歯を突き立てた。
 横では、赤が同じように僕の首を噛み、その肉を喰らっていた。その赤い血に濡れた赤の顔は、狂おしいほどに美しかった。
 僕の歯はそのまま赤の身体を下っていき、赤の肉を食んでいく。
 まるで交尾のように僕と赤は身体を密着させながら、お互いの肉を喰っていった。やがて、僕の視界が血で真っ赤になる頃には僕の意識は心地良い満腹感とともに落ちていった。

   ◆

 いつの頃からか、世界には霧が溢れ出した。
 “ひと”が互いを喰い始めたのも、ちょうどその頃からだ。
 壁を作ったのは、教団の人間たちだ。
 昔、まだ世界が平和だった頃、一人の予言者がこの未来を予言していたらしい。
 今日教団と呼ばれている人間の集団は、他の人々が馬鹿にしていたその予言を信じて避難した人々のことなのだと、赤が僕に教えてくれた。
 赤は物知りだ。
 赤の話を聞くのは、僕にとって楽しみのひとつになっている。
 放浪者が元々目指していた「霧の晴れた場所」とは、教団の本部または支部のことで、今でもそこに辿り着く事ができればこの世界から救われるのだと、いつかの食事の前に話してくれたことがある。
 自分は、そこを目指しているのだとも言っていた。
 定住者である赤がどうやってそこを目指すのか、僕には分からない。でも、きみがそこへ行くときが来たのなら僕も一緒に連れて行ってほしいと僕は言った。
 赤は笑って、頷いてくれた。
 今日も、赤のところへ行こうと思う。
 左側にある壁に手をつきながら、真っ白な霧のなかを僕は進んでいく。
 この壁は、どこまで続いているのだろう。
 もしかしたら、この壁は円形になっていて、僕は同じところをぐるぐると回っているだけなのかもしれない。
 その可能性は十分にある。
 でも、それではつまらないから、僕はこの壁がどこまでもまっすぐに伸びているのだと思いこんでいる。
 要は、気分の問題だ。
「やあ、青」
 霧のなかで、赤が言った。
「今日も来てくれたんだね」
 前回の食事から、一日くらい過ぎている。
「ああ、赤」
 僕は、赤の赤い髪に手を伸ばした。
「今日も、来たよ」
 僕の好きな赤。
「今日は、余裕あるのかな」
 すぐに食事をしなくてもいいのかと赤は言った。
 僕は頷いた。
「青。きみに話がある」
 その言葉を聞いたとき、僕の心臓が一度どくん、と鳴った。
「明日もまた、ここに来てくれるかな」
 それは、僕の想像していた通りの言葉であった。
 赤は続ける。
「明日、私はここを発とうと思う」
 食事でもないのに、赤の柔らかな手が顔に触れた。
「行き先は、あっちさ」
 赤の手が、首を下り、僕の肩をなぞって、右腕を滑り、右手に絡まった。
「赤。あっちって」
 僕ではない力が、僕の右手を持ち上げた。
 赤の指が絡まった僕の人差し指が指したのは、壁のある方向と反対側――何もない、霧のなかであった。
「あの霧のなかに、私たちは行くのさ」
「この壁を、離れて?」
「そうだよ」
 赤の顔が、近づいていく。
「駄目だよ」
 僕はか細い声で言った。
「壁に手をつかないで、霧のなかを歩くなんて」
 それは、自殺行為だ。
 霧のなかにいたら、自分の向いている方向なんてすぐに分からなくなってしまう。
 そのために、壁があるのに。
「その壁が、問題なんだ」
 食事でもないのに、赤の顔がはっきりと見えるくらいに近い。
「壁をどこまで行ったって、その先に教団の施設はないよ」
 赤が、耳元で囁いた。
「この壁も、この霧も、全ては教団の――」
 その先は、聞こえなかった。
 ああ、と赤が鳴いた。
「もう駄目だ。我慢できない」
 それは、僕も一緒だ。
「食事をしよう、青」
 僕と赤の歯が、同時に互いの首に噛みついた。

   ◆

 今日は、やけに“かげ”が多い。
 煤のようなものが、真っ白な世界のなかでぐねぐねと蠢いている。
 赤は、一体何者なのだろう。
 定住者なのに、やけにこの世界のことを知っている。
 僕の左手を見て驚いていたのだから、昔放浪していたということもないだろう。
 そもそも、本気でこの世界から救われようだなんて、今じゃ誰も思ってない。
 僕だって、放浪していたのは自身が放浪者だったからで、教団の施設を探して救われようだなんて考えたこともない。
 大体、教団の話だって全て赤から聞いたのだ。
 僕が赤と一緒に行くのは、ただ赤が好きだからだ。
 できることなら、僕はこのままずっとここで赤と食事だけしながら生きていたい。
 僕が赤を喰って、赤が僕を喰って。
 そしていつのまにか自分の昔の住み処で目を覚ます僕は、また赤と食事をするために霧のなかを歩いていくのだ。
 それの繰りかえし。
 赤。
 僕は――。
 目の前に、“かげ”が見えた。
 尋常な数ではない。
 たくさんの黒い群れが、何かに覆い被さるようにして蠢いているのだ。
 まさか。
 壁に手を当てたまま、僕は駆け出した。
 ざりざりざり、と壁に当てた掌の皮膚が剥がれ、黒い血のかたまりが指先のほうへ垂れていく。
 群れている“かげ”を右手で払い、その場にしゃがみ込んだ。
 そこに横たわっていたのは、赤であった。
 目をつむり、呼吸もしていない、赤の亡骸がそこにあった。
 赤の胸のあたりに、一本の黒い棒が刺さっている。
 その周りには、固形化した夥しい量の黒い血が巻き散らかされていた。
 “かげ”が、再び赤の身体にまとわりついた。
 右手で払ってみても一向に霧散する気配はない。
 赤の身体が、黒く染まっていく。
 赤い髪が、先端から黒く汚れていく。
 僕の愛した赤が、黒くなっていく。
「赤」
 一度だけ、名前を呼んだ。
 黒くなった赤は、何も言わなかった。
 ああ。
 だめだ。
 おなかがすいた。
 僕は、赤の首に歯を突き立てた。
 黒くなった赤の肉は、あまりおいしくなかった。
 気の済むまで、僕は赤の肉を貪っていた。
 気がついたら、赤の姿はなかった。
 壁に手をついたまま、僕は立ち上がった。
 霧のなかに、伸びるものがあった。
 影だ。
 僕の足先から伸びる影が、真っ白な霧のなかでも消えることなく、はっきりと地面に映っていたのだ。
 その影は、壁のある方向と反対側――何もない、霧のなかに向かって伸びていた。
 赤の声を、聞いた気がした。
 僕は、壁から手を離し、影の伸びる方向へゆっくりと歩いていった。




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