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     - 樹漁 -


 今のところ、職漁師である秋彦兄の秘密を知っているのは、ぼくだけのようだ。
 職漁師とは、釣った魚を旅館や食堂などに直接買い取ってもらうことで生計を立てている人のことである。
 ぼくより十歳上の秋彦兄は、都会の大学を卒業した後、この里に戻り職漁師を始めたのだそうだ。
 秋彦兄は、ぼくの本当の兄ではない。
 一人っ子で、他に遊ぶ子どものいなかったぼくをいつも構ってくれたのが、二軒隣に住んでいる秋彦兄であった。
 そのころから、秋彦兄は自分の家にひとりで住んでいたようである。
 理由は、知らない。
 昔のぼくにとっては、秋彦兄と遊べることが一番大切であったからだ。
 秋彦兄の家には、何度か入ったことがある。
 しっかりとした木造の一軒家で、壁のいたるところに、釣り具や、リールや、釣竿がぶら下がっていたのを覚えている。玄関から入ってすぐのところに大きな水槽があり、三、四匹の魚が常にそのなかを泳いでいた。
 秋彦兄に訊くと、これは鮎の友釣りに使うための囮鮎だと教えてくれた。
 そのときまで、ぼくは鮎の友釣りとは死んだ鮎を餌にして釣る釣法だと思っていた。そのことを秋彦兄に話すと、笑って、友釣りとは仕掛けの先に生きた囮鮎を付けたものを野鮎の縄張りに送り込み、縄張りを荒らされたと勘違いして囮鮎に野鮎が体当たりをしてきたところを囮鮎につけた掛け鉤と呼ばれる特殊な鉤で引っかけて釣るやり方なのだと言った。
 それから、ぼくは秋彦兄に釣りの方法を習い、秋彦兄が大学に合格するまでのあいだ、里の上流に位置する上狩川と呼ばれる渓流で、秋彦兄と一緒に渓流釣りを楽しんだ。
 釣れた魚は秋彦兄に見てもらい、稚魚であれば川へ返し、成魚であれば焚き火で焼いて一緒に食べた。そのうちに、二、三種類であればぼくでも釣った魚の名前が分かるようになってきて、秋彦兄が大学へ行ってしまった後も、ひとりで上狩川へと足を向けるようになった。
 その秋彦兄の秘密を知ってしまったのは、秋彦兄が帰ってきてから一ヶ月後のことであった。
 その秘密のことを、秋彦兄は「樹漁」と呼んでいた。

   ◆

「秋彦兄、今日も樹漁に行くんだね」
 ぼくは言った。
 ついていってもいい? と頼むと、秋彦兄は頷いた。
 秋彦兄は、片手に渓流用のカーボン竿を持ち、腰に大きな魚籠を提げている。
 ありがとう、と言って、ぼくは秋彦兄の釣竿を代わりに持ってあげた。
 空は、暗い。
 まだ、陽も昇っていない時刻から、秋彦兄は上狩川へと入る。
 職漁師として食っていくには、最低でも一日三十匹は魚をあげなければならない。
 上狩川の川質であれば、朝早くから竿を出して、夕方頃にやっとという量である。
 それを、秋彦兄は朝から昼過ぎの間でこなしてしまう。
 秋彦兄が魚を買い取ってもらっている近所の旅館では、週で百八十を一応のノルマとしているが、秋彦兄は職漁師を始めてから一度たりともそのノルマを超えなかったことはない。
 里のみんなは、秋彦兄の釣りの腕を称えているが、それが秋彦兄の秘密のおかげだとは気付いていない。
 気付いているのは、ぼくだけだ。
 ぼくが最初に気付いたのは、秋彦兄の釣ってくる魚のなかに、上狩川では釣れないような魚が混じっていたことである。
 アユ。
 ヤマメ。
 アマゴ。
 それらに加えて、本来上狩川では源流近くにしか生息しないイワナや本流まで下らないと釣れないハゼなどが含まれていたのだ。
 これは、実際に上狩川で竿を出してみないと分からないことである。
 また、秋彦兄が職漁師として上狩川に入るときには、いつもぼくが頼んでも連れていってはくれなくなった。旅館側の出した職漁が休みの日ならば、秋彦兄は昔と同じようにぼくを誘って釣りに行くのにである。
 それらが疑問になって、ある日ぼくはこっそりと秋彦兄の後をつけて上狩川に入った。
 そこで、ぼくは秋彦兄の言う樹漁を見てしまったのである。
「今日も、釣れるといいね。秋彦兄」
 だんだんと明るくなってきた空を見上げながら、ぼくは秋彦兄に言った。
 秋彦兄は笑って、頷いた。
 秋彦兄の後ろについて、上狩川の瀬にそって川を上っていく。
 足元の、ぼうぼうと茂った草が、足を動かす度にがさがさと揺れる。
 鳥の声が、聞こえる。
 樹木の、葉のひとつひとつに小さな水滴がのっていて、差し込み始めた陽の光を反射してきらきらと輝いている。
 時折、足に触れる蔓草が、ひんやりと冷たい。
 ぼくは、森の朝が好きだ。
 ひんやりとした森の匂いが、陽光に押し込められるように木々の底に溜まっていく。
 空の、冷たい青色のところが全部橙に塗り変わる頃には、森は、光を差してきらきらと輝いている。
 その、森の呼吸のような移り変わりを見るのが、ぼくは好きなのである。
 ぱき、と、足元で枝の折れる音がした。
 秋彦兄が立ち止まっていた。
 樹漁の場所に、来ていた。

   ◆

 そこには、一本の大きな老木があった。
 樹肌はがさがさとしていて、ところどころに大きな削り痕があった。
 秋彦兄は、魚籠を降ろすと、その老木の前に立った。
 樹肌に右手を当てて、そのままそこで動かなかった。
 突然、樹が、ぶるりと震えた。
 がさがさとけたたましい音を立てて、葉が揺れた。
 風が、吹いていた。
 老木の、葉の震えが、周りの木々にも伝播していく。
 がさがさ。
 がさがさ。
 がさがさ。
 風が、止んだ。
 森が、静かになった。
 秋彦兄の右手が、ごぽ、と音を立てて老木のなかに呑み込まれていった。
 秋彦兄は動かない。
 ただ、右の手首から先が、すっぽりと樹木のなかに呑み込まれて、見えなくなっていた。
 その状態が、しばらく続いた。
 秋彦兄が、突然、右手を引き抜いた。
 その右手に、しっかりと、形の良いイワナが握られていた。
 秋彦兄は足下に置いた魚籠を開けると、そのなかに、そのイワナを放り込んだ。
 これが、職漁師である秋彦兄の秘密であった。
 樹漁と呼ばれる、秋彦兄の秘密であった。
 また、秋彦兄は老木のなかに右手を呑み込ませていった。
 そうして、何度も手掴みで魚を釣り上げていったのであった。
 昼過ぎになったときには、秋彦兄の魚籠は、大量の川魚で埋め尽くされていた。
 どれも、形の良い魚ばかりであった。
 秋彦兄が、ぼくに、こちらへ来るように促した。
 ぼくは、素直に従った。
 秋彦兄の言ったとおりに、ぼくは、老木の樹肌に右手を置いた。
 それが、呑み込まれていった。
 まるで、樹の内臓のなかに、手を突っ込んだようであった。
 このまま右手を握れば、この老木の心臓を一掴みに潰してしまえるのではないかと思った。
 樹のなかには、流れがあった。
 川の流れのようでもあり、あるいは血液の循環する流れのようでもあった。
 しばらくそうしていたとき、ふいに、右手の指先にぬめりとしたものを感じた。
 その瞬間、ぼくは躊躇せずに樹のなかで右手を握っていた。
 ぬめぬめとした感触が掌の全体に広がった。
 そうして、その手を樹のなかから引き抜いた。
 ぼくの右手には、大きなヤマメが握られていた。
 それは、今までぼくが釣り上げたどのヤマメよりも、大きかった。
 ぼくは、秋彦兄のほうを見た。
 秋彦兄は、微笑みながら、ぼくを見下ろしていた。

   ◆

 その秋彦兄が、三日前から姿を消した。
 最初は、時間を忘れて釣りを楽しんでいるのだろうと言っていた人たちも、二、三日と経つうちに不安の声を上げ始めた。
 旅館に勤めている冬木おじさんが、心当たりはないかとぼくに訊いてきた。まさか樹漁のことを言うわけにもいかず、いつも秋彦兄と竿を出している渓流の瀬に案内したが、そこに秋彦兄の姿はなかった。
 みんな秋彦兄の行方を心配しているが、ぼくは秋彦兄が樹漁の場所にいるのだという妙な確信があった。
 だから、ぼくは、ひとりで上狩川を上ることにした。
 ひとりで上狩川に入るのは、秋彦兄が帰ってくる前日以来だ。
 誰にも見つからないように、朝早く、ぼくは家を出た。
 空には、分厚い、鉛色の雲がかかっている。
 澱んだ、土と雨の泥臭い匂いが、森のなかに立ち込めている。
 葉が、重そうに、頭を垂れている。
 風が吹いても、がさがさと揺れることはない。
 鳥の声は聞こえない。
 急に、森が、禍々しいもののように感じてきた。
「秋彦兄」
 無意識に、呟いた。
 ぬかるんだ土の地面のせいで、いつもよりも遅く、ぼくはその場所についた。
 目の前に、一本の大きな老木。
 それを取り囲むようにして並んでいる木々。
 そこに、秋彦兄はいなかった。
 濡れた木々の葉が、ゆらゆらと音もなく揺れていた。
 ほとんど茫然自失となって、ぼくは、ふらふらと老木の前に立った。
 ゆっくりと、その濡れた樹肌に右手を置いた。
 樹肌は、冷たかった。
 まるで、ひとの屍体のようであった。
 右手で、ぐい、と樹肌を押した。
 なにも、起こらなかった。
 ただ、老木の、嗄れた固い樹肌の感触を返してくるだけであった。
 ふと、足元を見た。
 そこに、秋彦兄の魚籠があった。
 何も考えられないまま、その魚籠を拾い上げた。
 ずっしりと、重い。
 その魚籠の蓋を、開けた。
 思わず、ぼくは叫び声を上げていた。
 その魚籠のなかには、びっしりと、川魚の稚魚が入っていた。
 ぐねぐねと身を震わせて、蠢いている、無数の稚魚。
 慌てて魚籠を放り投げ、ぼくは後ろに尻餅をついて倒れ込んだ。
 そのとき、ぼくの右の掌のなかで、ぶちゅ、という小さな音とともにぬめりとした感触が広がった。
 ゆっくりと手を開いて、見てみると、真っ赤な血に濡れた掌のなかで、内臓を潰された川魚の稚魚が、ぴちぴちと力なく跳ねていた。
 ぼくは声を上げて、手を振って稚魚を落とすと、後ろを振り返ることもなくその場所から逃げ出した。


 それからというもの、ぼくはどうしても生の魚を見ることができないでいる。




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