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     - ひとりあるき -


 少年の歡喜よろこびが詩であるならば、少年の悲哀かなしみも亦た詩である。自然の心に宿る歡喜にして若し歌ふべくんば、自然の心にさゝやく悲哀も亦た歌ふべきであらう。
 兎も角、僕は僕の少年の時の悲哀の一ツを語つて見やうと思ふのである。
                                           国木田独歩『少年の悲哀』


 国木田先生が柳井の旧家に滞在するようになってから、既に二年がたつ。
 僕が「ひとりあるき」を始めたのも、ちょうどそのころであった。
 そのとき、僕は東京の父母の元を離れ、柳井に住む叔父の家で暮らしていた。
 叔父の家は丘のふもとにあり、近郊には山林田畑が広がって、ほど遠くない場所に瀬戸内せとうち内海の入り江があった。そのため、僕が八つの時に叔父の家に預けられてから、山にも野にも林にも谷にも海にも川にも不自由はしなかった。
 叔父の釣り具を借りて川や海へ出かけたり、虫かごを持って野山を駆けずり回ったりと、存分にいなか暮らしを満喫していたのだが、この土地に同年代の子どもがいなかったために何をするにしても僕はひとりであった。
 確か僕が十二の時だったか、田布施のほうから人が移り住んできたという話を叔父から聞いた。それが、僕と国木田先生との出会いであったように思う。
 国木田先生の旧家は柳井のはずれにあって、叔父の家からだと二十分くらいかかる。ひっそりとした閑静な佇まいの一軒家で、居間にはたいして大きくもない座机がひとつ、ぽつんと置かれているだけであった。
 先生の旧家のにおいは、雨の日の野山のにおいによく似ている。濡れた樹木から染み出したにおいと同じものが、家のなかに溜まっているのである。
 このにおいは、僕の好きなにおいだと言ったら、先生は笑っていた。
 国木田先生は、小柄で白皙な、目つきの鋭い美男子であった。確か、年齢は当時二十一、二だったと思う。
 普段は無愛想にしているが、笑うことも多く、その顔は優しげである。
 国木田先生と直接出会ったのは、先生の旧家の庭の前であった。
 叔父から話を聞いた僕は、いてもたってもいられなくなって、先生の旧家へこっそり忍び込もうとしたのである。
 開いている門を素通りして、わざわざ裏手側の塀をよじ登り、いつも開け放しになっている裏口からこっそりと侵入してやろうと思っていたのだが、塀から地面に着地したところで僕は動くことをやめた。
 目の前にある先生の旧家から、月琴の音色が聞こえてきたからである。
 僕は、その場から動けずに、ただじっとその楽器の音色を聞いていた。
 やがて、曲が終わると、月琴を抱えた男の人が僕の姿に気づいたらしく、僕に目線をくれながらゆっくりと手招きした。
 その人が、国木田先生だった。
 こっそりと忍び込んだことを怒られるかと思っていたが、意外にも先生は僕を座机の対面に座らせて、よく冷えた麦茶を一杯振る舞うと、僕にこう言ったのであった。
「ちょっとした遊びをしよう」
 先生のその言葉に、僕の心は躍った。
 今まで、何をするにしても、僕はひとりであったからだ。
 その遊びとは、こういうものであった。
 週に二、三度、月のきれいな夜を狙って、叔父の家を抜け出しこの旧家に向かう。その際に、なにかひとつ道中で“土産”を取り繕い、それを先生が品定めする。
 “土産”は草でも花でも魚でも何でも良く、先生がそれを知らなければこちらの勝ち、逆に先生の知っているものであれば先生の勝ちとなる。
 旧家へ向かう行程は自由だが、あまり遅くならないこと。
 “土産”を事前に用意しないこと。
 その二点の注意を付け加えて、先生も図鑑などで事前に勉強しないことを約束した。
 この遊びを持ちかけられたとき、僕には先生を負かしてやる自信があった。
 これまで四年ものあいだ、僕は野山を駆け暮らして色々なものを見つけた。しかし、それらを自慢する相手が僕にはおらず、結局大きな蝶々も、きれいな草花も、すべて僕以外の目に触れることなくなくなってしまった。
 だから、先生から提案されたこの遊びは、僕にとってとても喜ばしいものであった。
 それから二年間、僕はこの遊びを「ひとりあるき」と名付け、月の夜には欠かさず先生の旧家を訪れるようになった。
 そして、未だに一度も僕が先生に勝った試しはない。

   ◆

 夏の最中、くっきりとした満月の夜であった。
 僕はその晩も、先生の旧家へ向かう道を進んでいた。
 青色の稲を横手に、あぜ道を歩いていくと、細い川の堤に出る。
 堤を上り、川を見渡す。月光をひたしたその水面はとても冷たそうに見えた。
 そのまま堤を下流のほうへ歩いていくと、やがて川は二手に分かれ、その上に橋の架けられた路にたどり着く。
 橋を渡り、そのまままっすぐ進めば先生の旧家には着くのだが、今夜はまだ“土産”を用意していなかった。
 この二年間、僕は思いつく限りの草花や虫、小魚などを先生の元へ持って行ったが、ひとつとして先生の知らないものはなかった。
 回数が増えるにつれ、用意する“土産”の質も自然と高くなっていく。
 あの草も知っているなら、この花ではどうか。それともこの枝葉か、虫か。
 そうやって苦心しつつ“土産”を探すのも、僕にとっては楽しみのひとつであった。
 しかし、今日はこれというものが見つからない。
 このまま川に沿って下れば入り江のほうに出るが、そこにはもうめぼしい“土産”はない。昔、入り江で拾った貝の欠片を持って行ったことがあるが、それすらも先生は何も見ずに判別してしまった。
 では、裏山のほうならばどうか。
 この橋と逆方向に進むと、裏山のほうへ出る。
 そこは昔、昼に一度行ったことがあったが、何もないまっさらな野面が広がっていただけであったため、その後足を向けたことはなかった。
 その裏山のことを、今になって思い出したのである。
 久しぶりに、行ってみようか。
 何も見つからなかったならば、それはそれだ。
 そう考えて、僕は裏山への道を歩き始めた。
 裏山といえども高さがそうあるわけでもなく、長い時間が経つうちに自然と忘れ去られた場所なのだと、以前叔父が話していたことがある。
 砂利になっている道を、足早に歩いていく。
 ほどなくして、前方の道が開けてくると、まっさらな草原に出た。
 そこには、月光を吸って葉先のしなりと曲がった青色の草が、一面に広がっていた。
 その光景は、まるで水面のようであった。
 その水面の上には、高く澄んだ月琴のような満月が昇っている。
 僕は、我を忘れてその光景を見ていた。
 ふと、その草の水面の上に、何かを見つけた。
 遠く離れているのでよく分からないが、どうやら木造の小さな小屋のようであった。
 その小屋のとなりに、白いものが見えた。
 真っ白な装束を着た、線の細い女性。
 僕は、青い水面を踏み分けながら、ゆっくりと女性のほうへ歩いていった。
 女性の元へたどり着いたとき、女性は、ふっと小屋のなかへ消えてしまった。
 僕は、小屋の扉に手をかけると、ゆっくりと開いた。
 その小屋は、何年も放置されていたらしく、ぼろぼろになっていて、所々材木が腐っている箇所もあった。
 なかに入ると、小屋の中央に、女性が立っていた。
 髪が長く、俯いていることもあって顔は見えない。
 僕は、女性のほうへ、ゆっくりと近づいていった。
 足を進めるたび、腐った床板が、ぎいぎいと音を立てる。
 女性は、俯いたままであった。
 転がっていた椅子に足を取られ、躓きそうになる。
 なんとか音を立てないようにして、僕は女性に近づいていった。
 ちょっとでも音を立ててしまうと、目の前の女性が、そのまま消えてしまうのではないかと思った。
 女性は、大きな木造の作業机の横に立っている。
 僕が、女性の近くまで来たとき、すっと女性の指が動いた。
 白い、陶器のような指であった。
 その指は、作業机の一角をさしていた。
 女性が指をさした場所には、一枚の写真が置かれていた。
 それを見たとき、僕は思わず息をのんだ。
 その写真に写っていたのは、僕とそっくりの少年であった。
 僕と同じ、十二くらいの少年。
 その横に、少年より少し背の高い少女が写っている。
 僕は、顔を上げた。
 目の前に、白い装束の女性の顔があった。
 病気かと思うほどに青白い、細やかな女性。
 その女性は、泣いていた。
 僕の顔を見て、女性は涙を流していた。
 ぼろぼろになった窓から差す青色の月光を浴びて、真っ白な女性は泣いていた。
 その顔は、写真に写っている少女のものであった。
 僕は、写真を片手に持ったまま、その場に立ちつくしていた。
 やがて雲が月を隠し、地上に落ちてきた青色の月の光がなくなると、それと同時に女性もすう、と消えてしまった。
 僕は写真を握りしめたまま作業机から離れると、そのまま扉の前まで戻り、小屋の外に出た。
 月光を失った草原は、真っ暗な奈落のようにも見えた。
 雑木林の入り口まで来たとき、僕は後ろを振り返った。
 そのとき、ちょうど隠れていた月が顔を出した。
 月琴のような、くっきりとした満月であった。
 月光を浴びた草原が、また先程のように青い水面へと変じていた。
 満月の下に、小屋があった。
 そこにはもう、誰もいなかった。
 僕はそのまま、雑木林のなかを歩き始めた。
 二度と振り向かず、僕は、先生の旧家に行くこともなく叔父の家に戻り、自分の部屋で一夜を過ごした。

   ◆

 国木田先生が柳井を離れたと知ったのは、翌日の夕方であった。
 結局、一度も僕は国木田先生との勝負に勝つことはできなかった。
 その日以来、十五になって叔父の元を離れるまで、僕は野山に入って遊ぶことはなくなった。
 そのことを、叔父は不思議に思うことはなかった。
 あの草原でのことは、誰にも話していない。
 先生が柳井を離れた二日後、裏山の草原に建てられていた小屋が、火事になった。
 付近の住人が総出で火消しに回ったが、風が強かったこともあり、結局小屋は全焼してしまった。その小屋は元々使われていなかったもので、大きな被害もなかったため、そのことはあまり話題にはならなかった。
 小屋自体が古かったこともあり、焼け跡には何も残らなかった。
 あの小屋が何であったのか、もう誰も知る人はいない。
 火事の後、月の出ている夜に、僕は一度だけ叔父の家を抜け出した。
 いつものあぜ道を通り、堤を上り、川に沿って歩き、橋を越えてまっすぐ進む。
 そこにあるのは、ひっそりとした閑静な佇まいの一軒家である。
 開いている門を素通りして、裏手側の塀をよじ登り、裏口へと回った。
 開け放しの裏口からなかへ入り、居間へと進む。
 居間の真ん中にはたいして大きくもない座机があり、その上に何かが置いてあった。
 それは、月琴であった。
 それ以外に、この旧家には何もなかった。
 そうして、僕はまた、ひとりになってしまったのであった。

   ◆

 国木田独歩先生の訃報を聞いたのは、それから十四年後の明治四一年のことであった。
 享年、三十六歳。肺結核であった。




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